昭和58年12月31日 除夜祭(表題案内で越年祭と言う)



 師走の際に思う事でございますが。一年の間神様の御神愛の中におかげを蒙って参りました。数々の事を思わせて頂いて、一年の感謝をこめて只今のお祭りを拝ませて頂きました。皆さんもそれぞれに思いをなさった事であろうと思いましが。私にとってこの一年は日々、日々がお生かしのおかげを頂いておるいう。実感の日々でございました。本当にお生かしのおかげを頂いておると言う事の、有り難さと言うか又は険しさと言うても良いかも知れません。
 なかにひと時も神様を外す事の出来ない、おかげを頂いておりましたが。一年間の間いろいろと振り返って見て。はぁほんとにおかげを頂いた年であったなと思う事は。第一不平不足を思わんで済む一年であったということ。日がたち腹たちが無かったと。一年であったと言う事。ただ一日一日をお生かしのおかげを頂いておるということに対する。神様をいよいよ身近に感ずる日々でございました。まぁ修行の一年と頂いたと言うても良いかも知れません。
 今日などはもう朝から、もう本当に這いも立ちも出来ん様に身体がきつかったのですけれども。今年最後の御修行頂いたと思うております。そうして神様を頂いておると言う事のしるしが、証しがはぁ不平不足を思わんで済む。不平不足を言うちゃならん。と言うのではなくて、その思わんで済むおかげを受けた事を、成程いらいらいらだちも無かった。腹立ちもなかった。そういうおかげの世界を今年は実感させて頂きました。
 お教会にとっては様々なおかげの中に。何と申しましても教祖100年祭、合楽の信奉者が千百名堂々お参りがお許しを頂いた事、出来た事。もうほんとに神様の願いに応える信心も出来んのに。こうした間違いのない実にしかもすんなりとおかげを頂いたと言う事は。いよいよ神様の願い、働き、それに応える事は出来んけれども。応えたいと曲がりなりにも一心に信心を進めて参りました。30数年前に私しと神様の間に交わされたいろいろな約束事やら。お知らせごとなどを思い合せて見て。
 成程末永先生じゃないけれども。神様には間違いがないなぁという思いをいよいよ深くするばかりでございます。100年祭を機に出来ておる出来ていないは、まぁ別として合楽としての目標と言うか、目指しを立教神伝に置き換え、一人一人が神様の御信用を頂いて又は神様の願いが掛けられておる。氏子としての自覚を持って、心願成就の為のいわゆるあいよかけよの世界の顕現を願って、出来る出来んは別として目標をそこに定めたのでございます。
 4,5日までございました。もんや程度をとおりますもんですから、いろいろおかげを頂いてお願いを考えさして頂いとりましたら。ふともう随分前でしたけれども。見事な大きな軸と言ったらええでしょうか、やっぱり軸の様に出来てます百人一首を軸にしてある。漆器茶碗で出来てる。はぁ見事な大変有名な書道の先生が箱書きをされとる。箱なんかもう箱だけでも大したことじゃろうと思う様な。立派な箱に入っておりましたが。さぁどこに掛けてよいやらさっぱり見当がつかん。
 掛けてみるけど一つ部屋の雰囲気を崩すという感じであった。こりゃもう折角頂いたばって、しょうがなかたい、それで倉庫二階挙げておりましたのを、思い出させて頂いて、今度のお正月には、あのう東脇殿のあのういつもお花をこう活けて下さるところのうしらに。そこにかけたならおかしくないかも知れん、早速それを出してもろうて、修行生のあそこに掛けて貰いました。ところがあんまりおかしくない。
 いやあなんとやはりなぁにもないよりやっぱり、それで神様にそのことを、私しお礼申し上げておりましたら。百人一徳と言う事を頂いたんです。あれは百人一首、その時分の沢山な歌人が詩を集めてその中から、選りすぐってあの百人一首は出来たといわれております。はぁはあ神様の願いはこう言うところにあったんだなぁと、合楽の信奉者の中から百人一徳衆を、今合楽では千人の参りの方、合楽では千人衆と言う事を申しますけれども。是は形だけの事でございます。
 だからその千人の中から選りすぐって百人一徳、一人に一つの徳を受ける力を受けて下さったらまたこれは合楽あるあ限り、何時の世までも丁度百人一首がああしていつの残っております様に。そういうおかげを頂いたら大変な事だ。有り難い事になるなと思はせて頂きました。皆さん百人一徳を一つ目指して下さい。来年はいよいよ世界真の平和を本気で力あるものの祈って祈らせて頂かなければならないお年がらと思います。人間いわゆる総人類の立ち行きを本気で、願わなければなりません。
 いかに天下国家の事を祈っておる願っておるというても。力のない者が願っても、千人万人の者が力のない者が祈ってももうそこには、ないも同じ事でしょう。これはどうでも合楽まぁ来年、皆さんもいうなら百人一首の一人を目指さしてもろうて、その今曲げ頂いて来た信心の内容、いよいよ確かなものにして行くおかげを頂いて貰いたいと思います。来年はもう第一に、もう何の事よりも世界の真の平和を願わなきゃなりません。本当に自分の力のない事を残念に思う事じゃなくて。
 その力を受けるためにいわゆる神様がお書きとめ下さった、合楽の千人参り。その中から選りすぐられる信心。そういう願いが私し共一人一人に掛けられておるんだ、そういう自覚を持って奮い立たせて頂き、一人一人が例えば天の徳だけでもええ、地の徳だけでもいい。一徳を身につけさせて頂いて百人が集まれば百徳である。その力を持って本気で世界の平和を祈ろう、願おう、総人類の立ち行きを願わしてもろうて。
 先日テレビでなんという大変いま人気のある女優さんが、今年一年の特別心に残られたことはないですかと言う。問いに対して、先だって小野じよ先生をお尋ね致しました。はぁなんか女流小説家えしょ。小説家でしょ。知っとる。そうでしょ確か。小野じよ先生をお尋ねした時に、私しは非常にお仕事の上で落ち込んでおりました。そしたらそれを見抜いた様に小野先生が、私の様な詰らんものは駄目です。私は駄目出来ませんと言うとったらほんとに駄目になるよ。
 私は天才だ、と言う様な思いで事に当らして頂いてご覧、必ず成功する、成就するよと。私は落ち込んだ時でございましたから、その言葉がもう千貫銀の重みをもって頂く事が出来たと言う話をしてました。私しもそう思う、もう一番修行の時代にいろいろ心安い、信心の人達には申しとりました。私がおかげ頂かん筈絶対ない。私がおかげ頂かん筈はない。まぁと言う風に私しは申しておりましたが。
 やっぱり段々おかげを頂いてまいりました。それにはどうでもいよいよ天地日月の心、いよいよ大きな願いを立てなければいけません。これも先だって或る有名な歌舞伎役者の話を聞きましたが。一門あげてお道の信心をし、自分の内には教会の様な見事な神様がお祀りしてある。何々の家は朝の御祈念から、夜が明けると言われるほどしに、まぁ熱心なと言うか、まぁ熱心な信心を一門でしておる。
 どこへ行くでも御神米を離した事はありません。楽屋にも御神米をお祀りしております。舞台に上がる時にはもう度々御神米を懐にして、お芝居をさしてもらう、芸道に励んでおると言う話。だからここまでの信心は私しは熱心なご信者の家には誰でもあると思う。立派にお祭りする。一家中で拝んでおる、参っておる。だからここのところから私しは合楽で願われておる、立教神伝を私共一人一人が受けたとして。
 いわゆる私共の願いが仕事の上に成就する。人間の幸せの条件も足ろうて段々おかげを頂いて、神様の御恩は忘れません、毎日拝んでおります。まいっておりますというだけから。いわゆる、善導寺、勿体島、椛目、常持、ここまではまぁ多いと思いますね。けれどもその常持ちから合楽をこう眺めて、いわゆる合楽世界に住むことを願いとして。神の願いに応えさして貰うこと。御役に立ちたい立ちたいの一念をもって。それには先ず力を下さいでなからにゃならん。力を頂かにゃならん。
 天の心、うるわしい心、いさぎよい心、まぁいろいろに説かれます。天の心とは無条件の心。そういう心である事は分っておりますから。それをやはり身に着けていくいよいよ修行こそが。力を受けるのじゃないでしょうか。天の心、例えば一年を締めくくった例えば今日、一年間を振り返って見て。広大なおかげを頂いて、本当に有り難うございますと、心からお礼が言えれるための願いが、私しは一つ今晩から、明日からされなきゃならないと思う。天の心を心とするうるわしの心。
 例えばお商売を致しましても、赤字赤字でそして神様に喜んで頂くような御用も出来ない様な事ではならん。願いが乏しい、願いが小さい、願いが切実でない。御役に立ちたいと言う一念が欠けておる。一億円の利益が一年であったなら、そのせめて一割は御用につこうて頂きたい。一千万のおかげが頂けたら、その一割の百万は年末のお供えがでける。その事を願い、私しは神様は聞いて下さると思う。私の信者時代に、久留米関係の教会ではどこも大祭といやぁ、御供え物は全部会整えます。
 御供え物を買いにやらせて頂く時にはいつも思っておった。善導寺教会では25台お三方がお供え致します。この25台のお供えを一人で出来る様なおかげを頂きたいなぁ。もう御大祭のお供えを買いに行くたんびに、これは切実に思いもすりゃ願いもしました。どうですかそんな願い以上のおかげを今日頂いております。願わにゃいけません。百万の一年間に、いうなら黒字になったなら、せめて一割の10万くらいはお礼のお供えが出来る様な年年であり。
 それがいよいよ10万が百万、百万が千万と言う様な大きなお役にも立てれる様なおかげを頂くために。たっても天の心を心とする。うるわしの心無条件の心も達していかなければなりません。と書く信心は地を肥やせ、地が肥えておればひとりでに物ができるようなものであると仰せられる様に。大地の心を心とする、いわゆる合楽で言われる土の心と。その修行があって、初めてその心をいやが上にも豊かに肥えて来る。ひとりでに物が出来て来る様なおかげを。
 日月の心、もう必ずり神徳が寄って来ると思いますね。間違いのない人真の人とも目指さして頂いて天の心、地の心、いよいよもって合楽理念にもとづく、願行(がんぎょう)とさしてもろうて、一人一人が力を受けて百人一徳、百人のものが一つの徳を受ける。それが百人集まったら百徳となる。その力を持って心願成就の為の有り方を身に着けていきたい。来年は何と言うてっも、もう第一に願わなくてはならない事は。世界真の平和である。そう人類の立ち行きである。世界の平和を絶叫する。
 というに絶叫しておりましても。力のない者が千人、万人集まったって大したことないです。ここに求められるものはいつも、ほんとに力です。天地を自由にするほどの地からです。その力を身に着ける事にいよいよ精進さして貰い。今年願い百年祭いわゆる続けて参りました立教神伝のご内容を、自分たちの信心の内容を。素晴らしいおかげを頂いてまいりましたが、是は何処までもまぁいうなら形のもの。私は久留米の梅林寺さんに参拝した時に、本当に宗教って素晴らしいなぁ。
 あれだけの整然としたたたずまい。修行僧の一人一人の方が、ほんとに見事なご修行振りを見て感心した事でございます。礼儀が正しい、しゃほうは以前の教えにもとづいて。それこそ信者ではない、一介の私達にでも思いを形に現される。そりゃぁお風呂場なんかのぞかして貰うと、いうなら手桶一杯の水でもま、大変な尊いものとして扱っておられる。野菜なんかは拾い集めた物を清めて頂かれる。甘木の初代もやっぱりそうです。それこそ枯れ木枯葉一枚でも天地の祖親神様の御物として大切に扱われた。
 タオル一本の使い方の上にまで心を込められた。どちらも私しは形においては同じですけれども、甘木の親先生の在り方を、教えられて守った人はおかげを受ける。病人が助かる開けぬはずの道が開ける。そしてあのひれいである。これをなら以前のお坊さんたちの修行のことから、形はもっと整然として出来ておるだろうけれども。んなら梅林寺さんでは病気が治ったとか、商売が繁盛したとかと言う話聞いたことがない。どこに違うか、神の大恩を知れば無事達者で子孫も続き、と仰せられる。
 神の大恩を知ってからの、いわばひとすくいの水であろうが、枯れ木枯葉一枚でも神様の御物としての頂き方が出来る所に、天地との交流、その交流ルートを通ていわば甘木のごひれいがあったように。形だけが整って参りますと金光教で()形だけの事を言うておるとまぁ或る先生が言われたように。教団が帰属化していくことは恐ろしい事だと。形だけがきちっと、いわゆる実意丁寧の化け物の様なものが沢山出来ても。それはどこまでも化け物だから、実意丁寧になさなければおられない。
 御物と押し戴かなけりゃおれない。御粗末には出きない。それが実意丁寧の形に現れ、それがいうなら始末倹約にも繋がっていく、御物としての頂くその内容が違うのである。合楽の場合私しは立教神伝を旨として、たいしながらその神願に応える祀ると言うおかげを頂く。合楽ではこうだというだけではなくて。一人一人がその内容を頂きたいと思う。自分の信心の内容にそうせずにはおれない心なんだ真心です。そうせねばならんのじゃない。そうせずにはおれない心をいよいよ来年は確かなものにさして頂こうと。
 まぁそんな事を思うております。いよいよ今年も暫くになりました。皆さん一年間を振り返って見て、お育てを頂いて来た、おかげを頂いて来た事。本当に相済まん事であった事等。色々と思いをされて、いよいよ信心の銘々内容を頂いて行こう。そして徳を受けそのお互い合楽の百人衆として、この人のこれだけはこの事は此方でなきゃ出来んと言った様な、力と徳を受けてその力を集めて、世界の難儀にも当らして頂きたいと、おこがましいですけども祈らせて頂けれる、おかげを頂きたいと思うております。
   皆さんどうぞよろしゅうお願い申します。